訃報

猛暑が続く日本列島、世間一般では夏休みが始まったこの日、昼頃にニュースサイトを見ていたら、松本龍環境大臣の訃報が目に飛び込んできた。全く想定していなかったので、しばし呆然とし、同時にいろいろな思い出が頭の中を駆け巡って、目が潤んだ。
松本龍さん、愛知県名古屋市で開催された生物多様性条約COP10の開催を一ヶ月後に控えた2010年9月17日に環境大臣に就任され、その後COP10の成功を目指して奔走・尽力され、交渉に当たる事務方を精神面でしっかりと支え、COP10を見事成功に導いた功労者だ。
COP10を一ヶ月後に控えたこのタイミングで大臣が変わるらしい・・・速報によれば松本龍議員が環境大臣になるらしい、知らないなぁ、血液型はB型か…さて吉と出るか凶と出るか。そんな話を今から8年ほど前の2010年9月17日金曜日の午前にしていたことはよく覚えている。その後、休日のレクを経て、国連のハイレベル会合に出るために、9月20日から一緒にニューヨークに出張に出かけた。そんなこともあって、僕の名前も覚えていてくれ、ともにCOP10の成功に向けて血眼になってできる限りのことをやったという思いがある。
2010年10月の生物多様性条約COP10。当時近年稀に見る成功を収めたとされた会議だけど、前年末のUNFCCCのコペンハーゲンの悲劇の後で、途上国と先進国との対立構造が全く解けない状況で突入せざるを得なかった状況にあったCOP10も同じくコケるのではないかとの予想が強く、マルチ(多数国間)の国際環境条約にはもはや望みなどないのではないかという雰囲気が充満し、参加国に悲壮感や絶望感が蔓延する中で、さらに環境関連条約を取りまとめる役割を担う某国連機関の長がCOP10は失敗すると見越してCOP10最終日を前に先に帰国してしまうような状況の中で、最後まで諦めずに全くぶれない態度で交渉を後押しし続け、その結果(実質的な内容はいろいろ議論はあるのでそれはともかくとしても)合意が危ぶまれていた名古屋議定書や2011−2020の戦略計画を見事合意に導き、それはCOP10の成功だけのみならず、まだマルチの国際環境条約には希望があることを示すことにつながっていて、そんな世界をあっと驚かせた功績は、今もなんら霞むことなく輝いていると思う。
その後、次の要職において大きな批判を浴びたこともよく知っている。そして、今もそのイメージで語られてしまうことが多いと思う。僕自身、その批判を浴びることになった要職をヘッドとする組織にその直後に着任することになり、復興に向けて3年近くひたすら走り続けることになっただけに、その批判の気持ちもよくわかる。そんな松本さんだけど、よく覚えているのは、COP10が終わった一週間後に僕はとあることで手を骨折したのだけど、その数日後、松本大臣が僕の包帯を巻いた手を見て「⚪︎⚪︎(苗字)、なんだその手は、どうしたんだ」と声をかけてこられ、骨折しました、と答えたところ、「何で骨折したんだ」とさらに訊かれ、それに対し「COP10は骨の折れる仕事だったので本当に骨が折れてしまいました」と答えたところ、そうか、とにっこり笑ってくれ、それ以上何も追求されなかったこと。僕が知っている松本大臣は、そんな優しい、おおらかな方だった。それは、環境大臣を辞められてから何度かお会いした時にもなんら変わらないものだった。そして、何よりCOP10の時の松本大臣のぶれずに動じずに後押ししてくれたあの力強さは忘れられるものではない。
最後にお会いしたのは昨年7月。その時は大変お元気だったので、それだけに今日のこのニュースは衝撃的で、とても悲しかった。
松本龍さん、お疲れさまでした。今はただ、ご冥福をお祈り申し上げるばかりです。