ヤマメ

ヤマメの干物

死んじゃった・・・・・・・・ショック!!
稚魚の時期は、栄養をほとんど貯めておけないからいつも餌をあげる必要がある。調査前には少し多めに与えておく。それで大丈夫なはずだった。
昨夜は日記に書いたとおり、バイクが壊れたなんだかんだで、餌を与えるのを忘れていた。今日、気が付き、水槽を覘くと腹をぺしゃんこにして弱々しくエラを動かして横向きになっているヤマメを発見。餌を食べられるように努力したが、既に弱っていて、いろいろしていると突然くるくると回りながら猛烈なスピードで泳ぎ始めたが、三十秒後、そのまま横に伏す。一時間後、死んでいた。
すまん。
ごめん。
悲しかった。
水槽から取り出して、干物にした。東京で土に埋めてもろくな事はなさそう。飼っている亀の餌にするつもり。残酷かもしれない。でも、ゴミ箱に行くよりはいいと思う。
生き物飼うことは、思っている以上に簡単なこともあれば、どうしようもなく難しいこともある。
ヤマメにしても信じられないぐらい厳しい(沢の中寒いよ)環境で時に躍動的に、時に息を潜めながら、生きながらえて来た。奴らは強いよ。自然に対しては。でも、人為的インパクトには弱い。もちろん、火山の噴火、土石流、他、自然状態で絶滅してきた個体群はたくさんある。でも、撹乱の大きさと頻度はそうしたものに比べて圧倒的に多いさ。今は生息環境は劣化している。
昨日の調査地にしても、なぜにヤマメがいるかって、放流しているためだ。多摩川の上流の場合はもともとイワナがいたが、減少・絶滅し、代わりに漁協がヤマメを定着させた経緯がある(もちろん在来ヤマメもたくさんいた、そのさらに上流域の話)。月並みだけど、豊かな川には、豊かな森があって、それでこそ、魚もいたはず。東京で暮らしている限り、そんな魚が消えたところで関係ないのかもしれない。でも、それはいやだ。
自分の興味対象・守って生きたいと思っているものは、その流域にいる人々の文化だなとよく思う。そのバックグラウンドとして、そこには、そこで暮らしていくための自然があった。ある意味身近な自然。身近ゆえに、守って来れなかった自然。それがなくなって、そこに棲むメリットはあるのだろうか?そこに住む人々の文化は確実に消える。
今の暮らしの中で、そこの自然に依存しているなんて、考えられなくなっている。あるのは住むための場所であって、食べるための場所じゃあない。そりゃこの国土に一億二千万人強も人がいれば、海外から輸入も必要かもしれない。でも、食料を外部に依存していることが、国土を生産性低いものに変えていく直接の理由にならない。日本が終わりなき技術立国であり続けてくれることを祈るばかりではあるが、そうでなくなったとき、どうなるのか?今の状態で自然に過負荷をかければ本当に崩壊する気がする。川の魚だって激減している。僕自身、地元の川で実感した。渦巻く魚、それがいなくなった。今はもう、自然には頼れない。失ったものは大きい。でもそれに気づいていない、気づけない人に溢れる日本。気づける環境を作れないことも確か。でも、なあなあで、経済価値がないから潰すのはいやだ。むしろ経済価値をなくしてきた悪循環。何とかしなきゃ、未来世代に申し訳なさ過ぎる。僕自身、多少なりともいい思いをし、そしてそこで暮らしてきたから。今はいい川を捜し求めていろいろ回るけど、でも、いい川って本当に減っているなあ。もうあまりないかもね。
今の研究対象はそうした地域よりも少しばかり山奥だ。山奥だが、よくまあここまで開発したね、ということをひしひし感じるこのごろ。いずれ、山奥から、田んぼを経て、河口域の砂州、青く広がる海まで、繋げていきたいなと思う。

書いていてまとまらなくなってきた。とにかく、生息環境は大変だよ。なかなか造れるものじゃあない。ヤマメを殺しておいてなんだけど、だからこそ、残したいんだよ。俺は。
勉強しよう。経験もしよう。