9/11

三年前に僕が衝撃を受けたのは正確には9/12だ。テレビは昔から持っていないから,その事件を知ったのは翌日の朝刊だ。大変ショックを受けたのを覚えている。新聞に齧りつき,ラジオを聞き,その他,いろいろ情報を集めようと苦心した。が,テレビがないおかげで,ビルに航空機が突っ込む動画を見たのはその年の大晦日だった。その映像を見て,不謹慎ながら最初に感じたことは,ハリウッド映画そっくりだ,ということだった。
この三年間にいろいろなことがあった。
思うことはたくさんあり過ぎて,書かないけど,一つだけ。「対テロ戦」。この言葉には,使われ始めた当初から,非常に違和感があって,今も嫌いな言葉だ。テロリズムとは「政治的目的を達成するために、暗殺・暴行・粛清・破壊活動など直接的な暴力やその脅威に訴える主義。行為。」のことであり,忌むべきものであり,拒否する。またテロはテロルでも略語でもあり「《恐怖の意》暴力行為あるいはその脅威によって、敵対者を威嚇(いかく)すること。恐怖政治。」そんな世界を望んではいない。
でも,テロ,という一言でくくりつけてしまう事に対して,違和感があり続ける。テロリズムに走る人間の中で,もしかしたら本当に戦争,暴力が大好き過ぎて突き進んでいく者もいるのかもしれない。いや,いるのだろう。でも,願わくは,どういう形であれ,どちらかと言えば平和で,楽しく人生過ごしたい,と思っていると思う。この時点で僕の考える仮定は既に甘いのかな?その辺はよくわからんけど。が,何もないなら積極的にテロリズムに走る人間なんていない。そこには,政治,信条,貧窮,歴史,民族意識,圧政からの逃避,権力欲,他,様々なものが絡み合って,人々を突き動かし,苦しみ,苦しませ,しかし,既存の力関係ではどうしようもなく,耐えるしかなく,耐え切れず,手段としてのテロリズムに走らざる得ない人々がいる。テロリズムとは,政治的目的を達成するための手段であって,それが目的ではないはず。
「対テロ戦」という言葉に対して感じること。テロリズムの目的というより,手段に焦点を絞り,テロリズムがなぜ起きるのか,どうして起こったのか,そうした背景を一般大衆の目から逸らせて,その暴力行為にのみ目を向けさせてしまう怖さを感じる。テロリズムの起きる背景にこそ問題があるはず。そこを無視して,手段としてのテロにのみ憎悪を募らせる。これでは何も発展しない。むしろ権力者にうまく利用されるだけだ。
9/11のテロで亡くなった方,ご冥福をお祈りします。あっ,仏教徒でなければ,ご冥福という言葉は使わないか。まあいいや。ちなみに僕は宗教は信じてません。精霊,大霊,自らの中にある信じたくなるもの,そうしたものは感じるけど。神様というものはいてもいいと思う。むしろ僕のロマンティズムから言うといて欲しい。そしてそれを素朴に伝えてくれる宗教はあってもいい。人々の心の糧になるものは,どうぞあってください。お願いです。でも,金と権力が絡み合った宗教はごめんだ。もし神が,僕の考えるように良心の塊ではなく,もっとドロドロしたものであるのなら,それも納得するけどね。今は亡き祖父の言葉が好きだな。「神様はいると思えばいるし,いないと思えばいない。」祖父の職業というか,信条が,その言葉をより重いものにしていたけど。話が逸れた。そして,その後の戦争で犠牲になった方々に,それ以上のご冥福をお祈りします。対テロ戦という枠の中で,一括りにされて殺されてしまった方々。何でもそうだけど,人間何かを理解するには,カテゴリー分けして要点を整理されたものじゃないとなかなか出来ない。その中のそれぞれの小宇宙・・・一人一人の人生,想い,そうしたものに目を向け始めると何も出来なくなってしまう。この場合は,テロの犠牲になった方々,そして対テロ戦で犠牲になった方々。そのカテゴリー分けの中でも,片や,それぞれの人生があったと悔やまれ,片や,一括りにされ,光を当てられない人々。なんとも言えず悲しいな。本当に哀しい。
一つ,心に留めておかなければいけないこと。今の快適な暮らしは,その全てがとは言わないが,多大な犠牲から成り立っているという事実。その歪みが解消されない限り,いろいろな部分で世界は必ず歪む。罪のない人々が殺された。それはそうだ。でも,本当にそれだけだろうか?何故,自らの命と引き換えにそうした衝動に駆られる者が出てくるのか,考えたい。もちろん,とことん悪いのは,そうした人々の悲しみを利用する心無き権力欲者だけどね。それはどこにでもいるけど。それも,でも,勝てば官軍,英雄になる。う〜ん・・・・・

文章がまとまらないけど,時間もないのでこの辺で。

たまに考える,もし大切な人をテロ行為で失ったら,僕も憎しみの塊になりかねないのだろうな・・・
そうならないように,出来る限り多くの人々の価値観を,受け入れられなくても理解しよう。これは今は亡き祖父の言っていたことの一部でもある。それはいつも考えること。