新聞

山雑誌「岳人」

中学校のときに、朝日中学生ウィークリーを取ってもらって、読み始めて以来、新聞は大好きだ。高校1年の時に下宿先で一年新聞を取らなかったら、『保・保連合』なんて当時新聞を賑わせていた単語の意味がわからなくて、反省し、それ以降、高2〜今に至るまで個人的に新聞は取っていて、ほとんどの欄を読破するというのが、日々の習慣だった。ペルーの日本大使館人質解放を知ったのは新聞だったし、9・11同時多発テロでも紙面から強い衝撃を受けたことを覚えている。
その新聞が、最近実につまらないのだ。何も心に響く記事を書かない。
魂が伝わってこない。
でも、ニュースは好きなので、読んではいるのだけど。いや、今月は取っていない。あまりにも家にいないから。新聞屋のお兄さんを言いくるめて、何とか新聞を止めた。購読を断ろうとすると、無料でも何でもいいから取ってくれという。初めは、意見の浸透の為なんだ、なんてぼんやり考えていた。部数を保つことが、その主張を社会に浸透させることのできる鍵かもしれない。でも、実際のところどうなのだろうか?ぼんやり考えていたら、一つのアイディアが思い浮かんで、一人で納得する。それはなんで新聞が、政府の広報機関のようなことしか言わないのかわかった気がした。
それは、新聞が今は、広告収入が重要な資金源になっているということだ。広告が収入源である以上は、広告主を喜ばせるためには発行部数を広げるしかない。そう考えると、地道に新聞料金をもらうというより、ビール券でもなんでも配ってとにかく拡大すればいいことが納得いく。広告収入が、主要な(もしくは無視できない)資金源なら、広告主には何も言えなくなってくる。広告主も含めていろいろ権力ににらまれるとまずいから、必要なことを、伝えるべきことを、強い論調を何も書けなくなっていく。そうすると、良識者が愛想を尽かせて、購読をやめる。そうなれば、ますます広告収入が重要になってくる・・・・この悪循環。
新聞を購読するときは、ビール券なんかは請求しない。持ってきても受け取りを拒否している。また、無料にしますよ、と言われても拒否してお金を払っている。頑張って新聞を書いてくれてお疲れさま、そういう敬意からだ。しかし、上のように考えたら、販売拡大は元からの読者層を裏切っていないか?読みたいのは政府の広報ではない。何にも縛られないで、ジャーナリズムを貫いて、いい記事を書いて欲しい。そのためにお金を払う。旅行に行っていてあまり読まない月も取っていた。が、もし実際自分の考えたようならなんだか馬鹿らしいぞ・・・・・そんなことを考えていた。
と、今日、ネットサーフィンしていたら、偶然、そのようなことを書いたウェブサイトにたどり着く。なるほど。社会科学の記述は、都合のいいデータの張り合わせも多々あるから、いつでもとりあえず少し斜めに読まないといけないのだけど、書いてあることに結構納得した。この方の書いた他の文章もいくつか読んだけど、面白かった。時間がないので、読んだのはごく僅かだけど。靖国 神社の話目から鱗だった。なるほど。その続きも読んでしまった。
いつでも、様々なことを斜め読みしよう。いろいろな情報を得て、それを自分の中で噛み砕こう。流されない、そしてしっかりいろいろなことを勉強しよう、そう痛感した午前中だった。